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なぜ、美容師というプレイヤーをやめたのか — 言美友宏が「仕組みを作る側」に回った理由

2026.05.03

なぜ、美容師というプレイヤーをやめたのか — 言美友宏が「仕組みを作る側」に回った理由

僕は美容業界で ONLYPRODUCTS株式会社という会社をつくり、OEMBANKとmm.というブランド事業の支援サービスを提供している。

美容師さんのノウハウや価値を、ただ消費するのではなく資産に変える仕組みだ。仲間もずいぶん増え、ブランドの数は15を超えた。

この記事では、僕の今までの経歴について書こうと思う。

なぜ僕は、美容師というプレイヤーをやめたのか、なぜ「仕組みの側」に回ったのか。その話を、少しずつしていきたい。

サッカーに捧げた学生時代

サッカーは、父の影響で始めた。

うちの親父は、近畿大学のサッカー部を作った世代の人間だ。家での遊びといえば、親父とボールを蹴ること。

小学校時代には、日本サッカー協会(JFA)が主催する、将来の日本代表選手やプロ選手を育成・発掘するための選抜育成制度であるトレーニングセンター(トレセン)にも呼ばれた。

中学でも、中河内選抜から大阪代表、関西トレセンと上がっていくなかで、たまたま帝京高校のコーチの目に留まった。

帝京高校は、ちょうどその頃、全国2位を2年連続で取っている強豪。

「高校行くなら、強いところに行きたい」そんなシンプルな理由で、僕はセレクションを受けに東京まで出かけた。

帝京高校は、上には上がいる世界。それでも入学当初は「このままプロになれる」と思って疑わなかった。

しかし、高校2年生以降、怪我や病気により、コートに立てないまま、1年を棒に振った。

「これは、サッカーでは食えないな」

高校3年生の春、僕はそれを静かに受け入れた。

ちょうどその頃、世間は美容師カリスマブームの真っ只中だったこともあり、中学の頃から好きだった髪の毛をいじることを思い出した。

「美容師って、ちょっといいよな」と、遠くの方でずっと思っていたから、思い切って美容業界に飛び込んだ。

行きつけだった美容室の店長に「バイトでいいから働かせてください」と頭を下げ、坊主のまま、現場に立った。

カリスマブームの裏側で感じた違和感

ここから先、僕は10年以上、美容師として現場に立ち続けることになる。

東京で働くことを選んだ以上、一人暮らしは避けられなかったが、資金もなかった。

だから働きながら通信制の美容学校に3年通って、免許を取った。カットの基礎を現場で叩き込まれ、閉店後にアシスタントとしての練習に明け暮れる毎日。

21〜22歳の頃、一度大阪に帰ってみたくて、当時の心斎橋の中心 -いまアップルストアになっているあの場所は、昔「お米ビル」というビル -の3階にあった美容室に就職した。

大阪で中心地に出よう、と気合いを入れて帰ってきたが、3ヶ月で、そのお店は潰れた。

当時のマネージャーは、いまでも年に何度かご飯を一緒に食べるほど仲がいい。彼がその時、こう言った。

「まだ若いんやから、もう1回東京戻れ」

僕は、その言葉に乗り、東京に戻って、今度は大型店舗に入った。

スタイリストになって、店長やマネージャーを任された。

カリスマブームの名残で、美容業界は活気があるように見えた。でも中に入ってみると、業界の離職率の高さは、半端じゃないという現実を目の当たりにした。

アシスタント時代の仲間が、スタイリストになる前に次々と辞めていく。スタイリストになっても、数年で疲弊して消えていく。美容室そのものが、数年単位で潰れたり、人が総入れ替えになったりする。技術が伝わらない。文化が積み上がらない。

美容師という仕事が、「どこか構造的に持続しない」ように、僕の目には映っていた。

カリスマブームに憧れて入ってきた若者たちが、同じカリスマブームの消費のなかで、擦り切れて去っていくという景色を、僕はずっと見ていた。

「このままで、大丈夫なんか」

スタイリストになってからも、店長になってからも、その違和感は消えなかった。

自分がプレイヤーとして残ることは、別にできる。でも、残った先に、20年後、30年後の自分の景色がうまく想像できなかった。

東京暮らしが10年を過ぎた頃、僕は急に「大阪に帰りたい」と思った。

理由は、はっきりとはわからない。

でもたぶん、あの時の自分はもう、プレイヤーとしてのキャリアの延長線では答えが見つけられないと、どこかで気づいていたんだと思う。

27歳、DMを送りまくった男と「個の時代」

大阪に戻った僕は、もう一度、大型サロンで働き始めた。そして27歳で、独立のことを真剣に考えるようになった。

資金はそこそこ貯まっていた。あとは店を出すだけ。普通なら、そうする。

でも、どうしても引っかかっていた。

自分がプレイヤーとしてお店を出して、スタイリストを何人か雇って、10年後、20年後、果たして僕はスタッフに何を残せるのだろう。自分が感じてきたあの違和感 -持続しない構造、消費されていくキャリア -を、僕自身が再生産するだけなんじゃないか。

「プレイヤーをサポートする会社を作れたら、面白いかもしれない。」

ある日、ふとそう思った。

思ったところで、当時の僕には経営者のコネも何もなく、SNSも今ほど発達していなくて、誰かに繋げてもらう手段もなかった。

だから僕は、知らない会社の社長に、DMを送りまくった。

「自分はこういう会社をやりたい。アドバイスをください。」

いま考えると、よくやったと思う。実際、反応が返ってこなかった数のほうが圧倒的に多い。でも、5人の社長が会ってくれた。

中でも忘れられない、ある社長の一言がある。

「これからはたぶん、SNSがどんどん普及する。個の時代が来るかもよ。」

個の時代。その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かがつながった。

個と繋がるということは、サロンという「箱」ではなく、美容師という「個人」と関係を結ぶビジネスをつくるということ。

じゃあ、美容業界で個と繋がれるプロダクトって何だろう。ディーラー? メーカー?違う。それは箱やサロンと繋がるものだ。

そこで行き着いたのがハサミ。

ハサミは、サロンの備品じゃない。美容師一人ひとりが、自分の手に合うものを選び、自分のお金で買う、徹底して個人と紐づいた道具だ。

「じゃあ、ハサミから入ろう。」

独立する前に、まずハサミのことを深く知ろうと思い、僕はハサミメーカーに飛び込んで、1年半、営業として働かせてもらった。

ハサミの構造、切れ味の理屈、美容師さんたちが何に悩んでいて何を求めているのか。全部、現場で吸収した。その1年半で、200〜300人分の顧客リストを自分で積み上げた。

そして、30歳のとき、僕はハサミのブランドを立ち上げて独立した。

「個の時代」と言われたあの日から、3年が経っていた。

多くの社長と会って立ち上げた事業

独立してから数年、僕の会社は形を変え続けた。

最初に立ち上げたのは、ハサミのブランドとカットセミナーをセットにした事業だ。

取引していたある先生が、分厚いベーシックカットの教材を持っていて、これを全国に届けられたら、美容師さんのベースが底上げされる。

そう思って、先生とパッケージを組んで、東京、栃木、全国のディーラーさんと連携してセミナーを回した。2年ほど、ひたすら走った。

次に取り組んだのが、アカデミーサロン。

先生の美容室が老朽化していたタイミングで、共同出資で新しい拠点を立ち上げた。

平日は通常の美容室として営業し、夜は美容師が学べるアカデミー空間として開放するハイブリッドな場所だった。

カットの本が並ぶ、少し変わったサロン。

それでも、僕の中にはずっと「もう一段、踏み込みたい」という気持ちがあった。

ある時、意図的に、自分の周りをリセットした。独立前の僕がやっていたように、会ったことのない人に会いに行く時間を作った。

業界も業種も関係なく、気になる人にひたすら会った。

業界の収益構造の問題に向き合うとき

東京のビューティーワールドで出会い、「これから全国に広げたいブランドがある」と聞いた。それがyakujoである。

「それ、僕にやらせてください。」

即答だった。

yakujoの総代理として展開を始めたことで、僕はようやく「個」から「面(サロン)」まで関係を広げられるようになった。

ハサミで築いた個人との関係を土台に、サロン単位での取引が生まれ、経営課題のレベルに踏み込める関係性ができ始めた。

そして、やってきたコロナ。

業界の展望は、一気に不透明になったと同時に、僕たちは立ち止まって考えた。

「これから、美容師さんやサロンにとって本当に必要な仕組みは何か」と。

ここで僕が気づいたことが、たぶん、いまのONLYPRODUCTSのすべての土台になっている。

コロナ前、業界ではプライベートブランド(PB)ブームが起きていた。

サロンが自分たちの商品を作って、自店のお客さんに売る。OEM会社がその仕組みを提案していて、実際ちょっとずつブランドを持つサロンは増えていた。

でも、そこ止まりだった。

ほとんどのPBが、利益率ベースで作られていたから、原価を抑えて、サロン内で売って、その差益で稼ぐことにしかならない。

そして、それよりもっと深刻な「信用の切り売り」の構造という問題が、美容業界にはあった。

メガメーカーが新商品を出す。美容師さんを起用してPRしてもらう。

SNSや展示会で発信する。ブランドが売れる。そのあと、美容師さんはPR料という単発のお金をもらって、それで終わりだ。

言い換えれば、美容師さんは自分の「信用」を切り売りして、メーカーの売上に貢献している。

でも、売ったのはメーカーの商品だから、売上そのものは美容師さんのもとには積み上がらない。

メーカーの商品を悪く言いたいんじゃない。僕自身が美容師として、その構造の中で働いていた。

問題は、そのモデルが長く続くと、美容師さん側に「資産」が積み上がらないまま、時間だけが流れていくことだ。

現場を一番知り、技術を持ち、顧客と直に接する存在なのに。僕はこの構造を、変えたかった。

美容師のノウハウを、「消費」ではなく「資産」に変える。

具体的には、美容師さん自身がブランドを持つ。

でもそれは、「自店の顧客に売るPB」ではない。美容師さんのノウハウ、哲学、実績を世の中に認知させ、全国に広げるための「器」としてのブランドを持つ。

モデルはBtoC(自店販売)ではなく、BtoB(全国サロン向け展開)で設計する。

このモデルで最初に始まったのが、RAPOLだった。

yakujoの導入サロンさんに提案し、第一号が立ち上がった。手応えがあった。1年で5ブランドを一気にテストマーケティングにかけた。

「ここまでならスケールさせられる」という感覚がつかめた。

そこから、サービスとして体系化したのが、OEMBANK。

既存のハサミの顧客を中心に横展開し、15ブランドを超え、それぞれが1〜2億規模で動く事業になっていった。展示会展開も本格化した。

僕たちは、メガメーカーの広告塔にならないブランドのつくり方を、一つの形として世の中に提示できるようになってきた。

振り返って思う、父の背中とアルバイトの経験

僕の事業の原点は、たぶん父親の背中にある。

父は、ゴルフ場とガソリンスタンドを経営していて、僕が物心ついた頃から、ずっと「自分の事業をやっている人」だった。

小学校の頃、弟と二人でよく父の会社に遊びに行った。父だけが他の人と違う席に座っていて、子供ながらに「かっこいいな」と思ったのを覚えている。

仕事の途中に行くから、「1000円あげるから、弟と二人でゲーセンで遊んでこい」と言われて、二人で外に出て遊んだ。

帰ってくると、また父は仕事をしていた。家にいる時の父と、会社にいる時の父は、まったく違うオーラだった。

これは、小学生の僕にとって強烈な原体験だ。

ただ、外から見ていてもう一つわかることがあった。起業って、大変だなということ。父は広島でゴルフ場の立て直しのために3年単身赴任していた時期がある。

僕らが高校生の頃だ。

それでも、父の背中を見ながら「自分も何か、自分でやってみたい」という気持ちは、子供の頃からなんとなく僕の中にあった。

その気持ちが最初に動いたのが、中学3年生の時だった。

帝京高校に進むことが決まったとき、ユニフォームの初期投資で15万円が必要だった。学費は推薦で免除されたけれど、ユニフォームは別。

父に出してもらうこともできたと思う。でも、僕は自分で稼いで払うことを選んだ。

いま思えば、自分で稼ぐ感覚を最初に身につけたのは、あの新聞配達だった。父の自営業を見続けてきた中で、自然とそうしていた。

サッカー一筋だった少年の“今”

美容業界には、整った道具はなかった。美容師さんのノウハウを資産に変える仕組みは、誰も作っていなかった。

既存のやり方は、プレイヤーの信用を切り売りする方向に流れていた。僕はその価値を、自分たちの手で作ることにした。OEMBANKとmm.は、そのひとつだ。

僕は30歳で独立してから、一度も「美容師に戻りたい」と思ったことはない。

プレイヤーの現場を愛していたけれど、自分が残るべき場所はそこじゃないと、どこかの時点ではっきり決めたからだ。

でも、美容師さんへのリスペクトだけは、手放したことがない。

  • 現場を一番知っているのは、美容師さん
  • 一番顧客を掴んでいるのも、美容師さん

その人たちのノウハウが、メーカーの一時的なPRのために消費されて終わっていくのを20年以上見続けてきた。

だからこそ、その構造を変えることに、残りの人生の時間を使おうと決めている。

この記事を読んでくれているあなたが、もし美容師さんなら、もしサロンオーナーさんなら、もし美容業界に関わる人なら、ひとつだけ伝えたい。

あなたのノウハウは、もっと高く売れていい。「切り売り」ではなく、「資産」に変えられる。

僕の会社、ONLYPRODUCTS株式会社は、「消費されないノウハウ」を持ち寄る人のための会社。

その具体的な方法や、これまでの失敗談、仲間たちの物語全部、この記事では語りきれなかった。これから続く記事で、一つずつ書いていくつもりです。

もしこの入り口の話に、少しでも引っかかるものがあったら、ぜひ直接お会いしたいので、ぜひ以下のLINEから問い合わせを待っています。

ONLYPRODUCTS株式会社 代表取締役
言美 友宏(ごんび ともひろ)