
僕は美容業界で ONLYPRODUCTS株式会社という会社をつくり、OEMBANKとmm.というブランド事業の支援サービスを提供している。
美容師さんのノウハウや価値を、ただ消費するのではなく資産に変える仕組みだ。仲間もずいぶん増え、ブランドの数は15を超えた。
この記事では、僕の今までの経歴について書こうと思う。
なぜ僕は、美容師というプレイヤーをやめたのか、なぜ「仕組みの側」に回ったのか。その話を、少しずつしていきたい。
Contents
サッカーに捧げた学生時代
サッカーは、父の影響で始めた。
うちの親父は、近畿大学のサッカー部を作った世代の人間だ。家での遊びといえば、親父とボールを蹴ること。
小学校時代には、日本サッカー協会(JFA)が主催する、将来の日本代表選手やプロ選手を育成・発掘するための選抜育成制度であるトレーニングセンター(トレセン)にも呼ばれた。
中学でも、中河内選抜から大阪代表、関西トレセンと上がっていくなかで、たまたま帝京高校のコーチの目に留まった。
帝京高校は、ちょうどその頃、全国2位を2年連続で取っている強豪。
「高校行くなら、強いところに行きたい」そんなシンプルな理由で、僕はセレクションを受けに東京まで出かけた。
帝京高校は、上には上がいる世界。それでも入学当初は「このままプロになれる」と思って疑わなかった。
しかし、高校2年生以降、怪我や病気により、コートに立てないまま、1年を棒に振った。
「これは、サッカーでは食えないな」
高校3年生の春、僕はそれを静かに受け入れた。
ちょうどその頃、世間は美容師カリスマブームの真っ只中だったこともあり、中学の頃から好きだった髪の毛をいじることを思い出した。
「美容師って、ちょっといいよな」と、遠くの方でずっと思っていたから、思い切って美容業界に飛び込んだ。
行きつけだった美容室の店長に「バイトでいいから働かせてください」と頭を下げ、坊主のまま、現場に立った。
カリスマブームの裏側で感じた違和感
ここから先、僕は10年以上、美容師として現場に立ち続けることになる。
東京で働くことを選んだ以上、一人暮らしは避けられなかったが、資金もなかった。
だから働きながら通信制の美容学校に3年通って、免許を取った。カットの基礎を現場で叩き込まれ、閉店後にアシスタントとしての練習に明け暮れる毎日。
21〜22歳の頃、一度大阪に帰ってみたくて、当時の心斎橋の中心 -いまアップルストアになっているあの場所は、昔「お米ビル」というビル -の3階にあった美容室に就職した。
大阪で中心地に出よう、と気合いを入れて帰ってきたが、3ヶ月で、そのお店は潰れた。
当時のマネージャーは、いまでも年に何度かご飯を一緒に食べるほど仲がいい。彼がその時、こう言った。
「まだ若いんやから、もう1回東京戻れ」
僕は、その言葉に乗り、東京に戻って、今度は大型店舗に入った。
スタイリストになって、店長やマネージャーを任された。
カリスマブームの名残で、美容業界は活気があるように見えた。でも中に入ってみると、業界の離職率の高さは、半端じゃないという現実を目の当たりにした。
アシスタント時代の仲間が、スタイリストになる前に次々と辞めていく。スタイリストになっても、数年で疲弊して消えていく。美容室そのものが、数年単位で潰れたり、人が総入れ替えになったりする。技術が伝わらない。文化が積み上がらない。
美容師という仕事が、「どこか構造的に持続しない」ように、僕の目には映っていた。
カリスマブームに憧れて入ってきた若者たちが、同じカリスマブームの消費のなかで、擦り切れて去っていくという景色を、僕はずっと見ていた。
「このままで、大丈夫なんか」
スタイリストになってからも、店長になってからも、その違和感は消えなかった。
自分がプレイヤーとして残ることは、別にできる。でも、残った先に、20年後、30年後の自分の景色がうまく想像できなかった。
東京暮らしが10年を過ぎた頃、僕は急に「大阪に帰りたい」と思った。
理由は、はっきりとはわからない。
でもたぶん、あの時の自分はもう、プレイヤーとしてのキャリアの延長線では答えが見つけられないと、どこかで気づいていたんだと思う。
27歳、DMを送りまくった男と「個の時代」
大阪に戻った僕は、もう一度、大型サロンで働き始めた。そして27歳で、独立のことを真剣に考えるようになった。
資金はそこそこ貯まっていた。あとは店を出すだけ。普通なら、そうする。
でも、どうしても引っかかっていた。
自分がプレイヤーとしてお店を出して、スタイリストを何人か雇って、10年後、20年後、果たして僕はスタッフに何を残せるのだろう。自分が感じてきたあの違和感 -持続しない構造、消費されていくキャリア -を、僕自身が再生産するだけなんじゃないか。
「プレイヤーをサポートする会社を作れたら、面白いかもしれない。」
ある日、ふとそう思った。
思ったところで、当時の僕には経営者のコネも何もなく、SNSも今ほど発達していなくて、誰かに繋げてもらう手段もなかった。
だから僕は、知らない会社の社長に、DMを送りまくった。
「自分はこういう会社をやりたい。アドバイスをください。」
いま考えると、よくやったと思う。実際、反応が返ってこなかった数のほうが圧倒的に多い。でも、5人の社長が会ってくれた。
中でも忘れられない、ある社長の一言がある。
「これからはたぶん、SNSがどんどん普及する。個の時代が来るかもよ。」
個の時代。その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かがつながった。
個と繋がるということは、サロンという「箱」ではなく、美容師という「個人」と関係を結ぶビジネスをつくるということ。
じゃあ、美容業界で個と繋がれるプロダクトって何だろう。ディーラー? メーカー?違う。それは箱やサロンと繋がるものだ。
そこで行き着いたのがハサミ。
ハサミは、サロンの備品じゃない。美容師一人ひとりが、自分の手に合うものを選び、自分のお金で買う、徹底して個人と紐づいた道具だ。
「じゃあ、ハサミから入ろう。」
独立する前に、まずハサミのことを深く知ろうと思い、僕はハサミメーカーに飛び込んで、1年半、営業として働かせてもらった。
ハサミの構造、切れ味の理屈、美容師さんたちが何に悩んでいて何を求めているのか。全部、現場で吸収した。その1年半で、200〜300人分の顧客リストを自分で積み上げた。
そして、30歳のとき、僕はハサミのブランドを立ち上げて独立した。
「個の時代」と言われたあの日から、3年が経っていた。
多くの社長と会って立ち上げた事業
独立してから数年、僕の会社は形を変え続けた。
最初に立ち上げたのは、ハサミのブランドとカットセミナーをセットにした事業だ。
取引していたある先生が、分厚いベーシックカットの教材を持っていて、これを全国に届けられたら、美容師さんのベースが底上げされる。
そう思って、先生とパッケージを組んで、東京、栃木、全国のディーラーさんと連携してセミナーを回した。2年ほど、ひたすら走った。
次に取り組んだのが、アカデミーサロン。
先生の美容室が老朽化していたタイミングで、共同出資で新しい拠点を立ち上げた。
平日は通常の美容室として営業し、夜は美容師が学べるアカデミー空間として開放するハイブリッドな場所だった。
カットの本が並ぶ、少し変わったサロン。
それでも、僕の中にはずっと「もう一段、踏み込みたい」という気持ちがあった。
ある時、意図的に、自分の周りをリセットした。独立前の僕がやっていたように、会ったことのない人に会いに行く時間を作った。
業界も業種も関係なく、気になる人にひたすら会った。
業界の収益構造の問題に向き合うとき
東京のビューティーワールドで出会い、「これから全国に広げたいブランドがある」と聞いた。それがyakujoである。
「それ、僕にやらせてください。」
即答だった。
yakujoの総代理として展開を始めたことで、僕はようやく「個」から「面(サロン)」まで関係を広げられるようになった。
ハサミで築いた個人との関係を土台に、サロン単位での取引が生まれ、経営課題のレベルに踏み込める関係性ができ始めた。
そして、やってきたコロナ。
業界の展望は、一気に不透明になったと同時に、僕たちは立ち止まって考えた。
「これから、美容師さんやサロンにとって本当に必要な仕組みは何か」と。
ここで僕が気づいたことが、たぶん、いまのONLYPRODUCTSのすべての土台になっている。
コロナ前、業界ではプライベートブランド(PB)ブームが起きていた。
サロンが自分たちの商品を作って、自店のお客さんに売る。OEM会社がその仕組みを提案していて、実際ちょっとずつブランドを持つサロンは増えていた。
でも、そこ止まりだった。
ほとんどのPBが、利益率ベースで作られていたから、原価を抑えて、サロン内で売って、その差益で稼ぐことにしかならない。
そして、それよりもっと深刻な「信用の切り売り」の構造という問題が、美容業界にはあった。
メガメーカーが新商品を出す。美容師さんを起用してPRしてもらう。
SNSや展示会で発信する。ブランドが売れる。そのあと、美容師さんはPR料という単発のお金をもらって、それで終わりだ。
言い換えれば、美容師さんは自分の「信用」を切り売りして、メーカーの売上に貢献している。
でも、売ったのはメーカーの商品だから、売上そのものは美容師さんのもとには積み上がらない。
メーカーの商品を悪く言いたいんじゃない。僕自身が美容師として、その構造の中で働いていた。
問題は、そのモデルが長く続くと、美容師さん側に「資産」が積み上がらないまま、時間だけが流れていくことだ。
現場を一番知り、技術を持ち、顧客と直に接する存在なのに。僕はこの構造を、変えたかった。
美容師のノウハウを、「消費」ではなく「資産」に変える。
具体的には、美容師さん自身がブランドを持つ。
でもそれは、「自店の顧客に売るPB」ではない。美容師さんのノウハウ、哲学、実績を世の中に認知させ、全国に広げるための「器」としてのブランドを持つ。
モデルはBtoC(自店販売)ではなく、BtoB(全国サロン向け展開)で設計する。
このモデルで最初に始まったのが、RAPOLだった。
yakujoの導入サロンさんに提案し、第一号が立ち上がった。手応えがあった。1年で5ブランドを一気にテストマーケティングにかけた。
「ここまでならスケールさせられる」という感覚がつかめた。
そこから、サービスとして体系化したのが、OEMBANK。
既存のハサミの顧客を中心に横展開し、15ブランドを超え、それぞれが1〜2億規模で動く事業になっていった。展示会展開も本格化した。
僕たちは、メガメーカーの広告塔にならないブランドのつくり方を、一つの形として世の中に提示できるようになってきた。
振り返って思う、父の背中とアルバイトの経験
僕の事業の原点は、たぶん父親の背中にある。
父は、ゴルフ場とガソリンスタンドを経営していて、僕が物心ついた頃から、ずっと「自分の事業をやっている人」だった。
小学校の頃、弟と二人でよく父の会社に遊びに行った。父だけが他の人と違う席に座っていて、子供ながらに「かっこいいな」と思ったのを覚えている。
仕事の途中に行くから、「1000円あげるから、弟と二人でゲーセンで遊んでこい」と言われて、二人で外に出て遊んだ。
帰ってくると、また父は仕事をしていた。家にいる時の父と、会社にいる時の父は、まったく違うオーラだった。
これは、小学生の僕にとって強烈な原体験だ。
ただ、外から見ていてもう一つわかることがあった。起業って、大変だなということ。父は広島でゴルフ場の立て直しのために3年単身赴任していた時期がある。
僕らが高校生の頃だ。
それでも、父の背中を見ながら「自分も何か、自分でやってみたい」という気持ちは、子供の頃からなんとなく僕の中にあった。
その気持ちが最初に動いたのが、中学3年生の時だった。
帝京高校に進むことが決まったとき、ユニフォームの初期投資で15万円が必要だった。学費は推薦で免除されたけれど、ユニフォームは別。
父に出してもらうこともできたと思う。でも、僕は自分で稼いで払うことを選んだ。
いま思えば、自分で稼ぐ感覚を最初に身につけたのは、あの新聞配達だった。父の自営業を見続けてきた中で、自然とそうしていた。
サッカー一筋だった少年の“今”
美容業界には、整った道具はなかった。美容師さんのノウハウを資産に変える仕組みは、誰も作っていなかった。
既存のやり方は、プレイヤーの信用を切り売りする方向に流れていた。僕はその価値を、自分たちの手で作ることにした。OEMBANKとmm.は、そのひとつだ。
僕は30歳で独立してから、一度も「美容師に戻りたい」と思ったことはない。
プレイヤーの現場を愛していたけれど、自分が残るべき場所はそこじゃないと、どこかの時点ではっきり決めたからだ。
でも、美容師さんへのリスペクトだけは、手放したことがない。
- 現場を一番知っているのは、美容師さん
- 一番顧客を掴んでいるのも、美容師さん
その人たちのノウハウが、メーカーの一時的なPRのために消費されて終わっていくのを20年以上見続けてきた。
だからこそ、その構造を変えることに、残りの人生の時間を使おうと決めている。
この記事を読んでくれているあなたが、もし美容師さんなら、もしサロンオーナーさんなら、もし美容業界に関わる人なら、ひとつだけ伝えたい。
あなたのノウハウは、もっと高く売れていい。「切り売り」ではなく、「資産」に変えられる。
僕の会社、ONLYPRODUCTS株式会社は、「消費されないノウハウ」を持ち寄る人のための会社。
その具体的な方法や、これまでの失敗談、仲間たちの物語全部、この記事では語りきれなかった。これから続く記事で、一つずつ書いていくつもりです。
もしこの入り口の話に、少しでも引っかかるものがあったら、ぜひ直接お会いしたいので、ぜひ以下のLINEから問い合わせを待っています。
ONLYPRODUCTS株式会社 代表取締役
言美 友宏(ごんび ともひろ)